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デザイナーの功績・略歴のご紹介です |
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| 名作家具のデザイナーさんたちを有名にしてきたのは、家具を販売する様々なビジネスプローモーションのおかげの部分は、大変大きく、建築の分野などでは、以外に冷静に学術的に紹介されていたりします。中にはもちろん建築の学校を卒業しましたが、建築の分野では、社会的な評価をされていない方もいらっしゃいます。しかし、家具の販売分野では上述のとおり、影響力は計り知れないものがあります。 |
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■George Nelson/ジョージ・ネルソン |
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George Nelsonは、建築家であり、グラフィックデザイナー、著者、教師、インテリア・プランナー、プロダクトデザイナーと多数の才能を存分に発揮した活動をしてきました。最初は、芸術学を学んだ後、建築の分野で功績が認められ、建築フォーラムの編集スタッフとして働き、最終的にハーマンミラー社との共同作業により更なる功績をあげ、時計・家具等 数々の名作を残してきました。
作品には、マシュマロウチェア・プレッツェル等があり、イームズ、サーリネンらと共にミッド・センチュリーを代表する建築家・デザイナーです。 |
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■Ludwig Mies van der rohe/ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ |
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コルビジェと並び20世紀を代表する建築家として、またバルセロナチェアのデザイナーとして私達にもとてもなじみが深い存在です。初期の作品として「トゥーゲンハット邸」の設計、1929年スペインで開催されたバルセロナ万博のドイツパビリオン等の作品評価がミースの建築家としての地位を確立し、バウハウスの3人目にして最後の校長にもなりました。このときのミースの学長としての仕事は、バウハウスの終焉をフォローして行く大変な役割だったと伝えられています。
このドイツでのバウハウス(機能主義)が、スチールパイプによる椅子のデザインを生み出してきました。初のパイプ椅子として今でも評価が高いマルセル・ブロイヤーの1925年に製作された「ワシリーチェア」に始まり、カンチレバー構造を付加したものの代表作として、1927年のミースの「MR10」サイドチェアがあげられます。更に、このカンチレバー構造に加えてパイプではなく板状のスチールバーを用い製作されたのが、1930年に製作された「ブルーノ・チェア」です。また、その前の年には、「バルセロナチェア」が発表されています。
後に活動の場をアメリカに移し、建築家として専念します。以後生涯200を越える建築作品の内の120以上もの作品をアメリカで手がけました。住宅では、「ファンズワース邸」が有名で、依頼主とのトラブルが伝えられてはいますが、現代にも残るほどの名作として今でも残っています。2001年までは、見学ツアーなども組まれてはいましたが、現在では見ることはできないそうです。また、50以上もの大型建築にも取り組みミースの建築に対する考えを発展・具現化していきました。生涯、建築に対する考え方を固定化せず、社会・材料・テクノロジーを見つめ「流動する」をテーマに建築家として生きたのが、ミースです。 |
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■Eileen Gray/アイリーン・グレイ |
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アイリーンは、1902年までロンドンとパリで絵画を学びます。勉強の傍ら工芸品にも興味を持ち、日本に漆の習得の為に来ています。その後、ロンドン・パリで過ごしながら家具デザインに携わり1922年にインテリアと家具の事務所を設立しました。
その活動の中で彼女の名を押し上げたのが、1925年に設計をした初めて鋼管家具を設計し1927年から着手したE1027ハウスの為に数多くの鋼管家具を製作しました、この中に今でも名品として残るE1027テーブルがありました。このテーブルのコンセプトは、今につながるバリアフリーのような可変性を加えたベッドに備え付けのテーブルとして考えられたものです。この作品で、徐々に認められ、コルビジェと並びパリ万博での展示や数多くの建築・インテリアを手がけてきました。
アイリーン・グレイの特徴は、独学で建築を学び、はじめての鋼管家具の設計といったオリジナリティと独創性へチャレンジ精神旺盛な仕事にありました。 |
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■Isamu Noguchi/イサム・ノグチ |
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アメリカで生まれ幼少を日本で過ごしたが、14歳から再びアメリカに戻り以後、アメリカを拠点に世界的な評価を得た彫刻家として有名です。修学の軌跡を見るとまさに彫刻を中心に求めて行く姿勢がうかがえます。1922年から彫刻家として仕事を進める傍らコロンビア大学の医学部(人体研究)へ通い、NYのダビンチアートスクールで彫刻の研鑚に勤めました。
その後、パリに渡り更に勉強を続けます。1936年にメキシコ・シティのダウンタウンでのモニュメント製作、第2次世界大戦時中は、強制収容所にも収容させられましたが、釈放後また精力的に、エルサレムの国立美術館の庭園設計、家具、舞台美術等での世界的な活躍が認められています。
彼に関しての書籍を読めば読むほど[彫刻]というアートに深く傾倒したアーティストとしての情熱的な姿勢が見えてきます。
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■Le Corbusier/ル・コルビジェ |
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本名:シャルル=エドゥアール・ジャンヌレとしてスイスで生まれました。20世紀の巨匠建築家として今でもその功績は高く評価されつづけています。黄金比率に魅せられ幾何学形態の中に建築のモチーフの多くを見出し、多くの作品を手がけました。1920年代住宅建築と事務所のメンバーであるピエールやペリアンらと従来の装飾芸術としてのインテリアからの脱却を図る為の設備品としての家具「LCシリーズ」を発表し、1920年代にプロダクトとしてのプロモーションを手がけるなど時代の先端を追いつづけました。
当初の作品は、いろいろな材料と取り組み住宅などを手がけましたが、パリに拠点を移した「白の時代」と呼ばれるサボイ邸、ラ・ロッシュ邸等の代表作品には、コルビジェの家具が収められ今でも見学が出来るモダニズム建築の象徴となっています。後に大型のアパート、ビルの建築、後年には、ロンシャン教会などの20世紀の代表建築に名を連ねる仕事を成し遂げています。
また、「モデュロール研究」等の黄金比率から導かれる美を形成する様々な図形法則等の研究を完成させ、建築のみならず画家としての作品も数多く残しています。コルビジェの事務所に所属した日本人愛弟子、板倉準三、前川國男、吉阪隆正らの活躍により日本のモダニズムの先駆けとなり、丹下健三など日本の建築に大きく影響を与えたと言われています。
コルビジェは、建築家・巨匠としての評価よりも、総合的には芸術家・アーティストとしての活動に興味を持ち、1955年に日本に来日した時には、もはや建築には感心が薄れていたとも言われています。ミースを忍耐強い父親像とするなら、コルビジェは生涯、自分に感心を持ちつづけた、アーティストとしての個人でありつづけた後姿が見えてきそうです。 |
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■Paul Kjaerholm /ポール ケアホルム |
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1953年、フリッツ・ハンセン社退社後家具職人として腕を磨いた。
60年、デンマークパビリオンでグランプリを受賞。73年にはデンマークデザイン協会会長に。初期の作品は、フリッツ・ハンセン社によって作製され、55年よりE.コルド・クリステンセン社、82年からは再びフリッツ・ハンセン社が製作しました。
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■Achille&PierGiacomoc Castiglioni /カスティリオーニ兄弟 |
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| ■Achille 1918-2002/PierGiacomoc 1913-1968 |
| ■イタリア |
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| 兄リヴィオがデザイン事務所を独立後、兄弟で家具、照明のデザインに力を注ぐ。
1950年代に入るとアッキーレとピエル・ジャコモは、デザインにおける彼ら独自の感性を次々と表現していく。1957年に発表した2つの実験的とも言えるスツールは、まさにその象徴的プロダクトといえる。
そして、1960年代のイタリア照明界の代表デザイナーとなる。大理石のベースから優雅な曲線を描きながら伸びるアームを持つ「ARCO」、自動車のヘッドライトを利用してデザインされた「TOIO」は、今やモダン照明デザインの古典的存在になっている。1968年にピエル・ジャコモが亡くなるまで2人によるデザイン活動が続く。また1956年に設立したADI(インダストリアル・デザイン協会)の文化活動にも積極的に参加している。 その後アッキーレは、2002年に亡くなるまで多くの作品を精力的に発表し続けた。 |
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